映画祭について:喜多見と狛江の映画祭+α

喜多見と狛江の小さな小さな映画祭+αについて

なんだか「知らない」「わからない」ことが増えた。

これは逆にわたしたちが目にする情報が増えて来たから? 
なんにせよまずは「知る」ことからはじめたい。
「今の日本を考える」小さな小さな映画祭です。

仕事を休んでも見に行かなければ

一回こっきりだと思っていた《喜多見と狛江の小さな映画祭》が好評で、第二回をやるという。選ばれた作品を見て驚いた。第一回も驚いたが、第二回はさらにすごいことになっている。

映画・演劇などのメディアは、「誰が」「何を」「いかに」伝えるかという三つの側面を持っている。普通、記録映画は「何を」伝えるかが重視され、ものによってはせいぜい「いかに」を問題にする程度だ。「誰が」に至っては、目立たない方がいいとさえいわれた。

ところが、第二回のプログラムを見ると、この原則が音を立てて崩れているのを感じる。

この作品群は「何を」とらえているのか?〈時代〉をである。「いかに」……おそらくは〈下〉から――〈民衆の視座〉から。そして、だからこそ、「誰が」が見えてくる。その「誰が」――作り手の存在そのものが「時代」であるという、そのようなすごいことになっているのが、第二回の《喜多見と狛江の小さな映画祭》なのだ。

これは、仕事を休んでも見に行かなければなるまい。

ふじたあさや(劇作家・演出家)